kokugotokyouiku’s diary

国語と教育。文学。ココらへんについて、(超初心者が)考えていることをゆるゆると書いていきます。ちなみに筆者は4月から新米の高校国語教員。

手話もコトバ

素敵な動画見つけました

youtu.be

聞こえない女性と聞こえる男性の恋愛の実話を基にしたラブソング。 2人の恋愛模様を描いたMV(ドラマver.)、主演 足立梨花が6年ぶりに聞こえない女性の役を演じ手話に挑戦!

 

 ろう者の女性と男性の実話を基にしたラブソングだそうです。手話ってこんなに素敵な世界を作ってくれるんですね。

 手話は大学の一般教養の授業で習ったぐらい。ろう者の方とコミュニケーションをとるためには、必須、という意識でいました。

 

 でも、この動画を見たときに、一つの「コトバ」として素敵だと感じました。芸術としての「コトバ」と言えば良いんでしょうか。

 例えば、漢詩だって、意味はよくわからずとも胸に迫る感覚を覚えることはあります。杜甫の「春望」なんて、しっかり現代語訳できなくても、吟じると何となく心揺さぶられます。

 それに近いのかはよくわかりません。ただ、手話もコトバの一つであることには間違いないでしょう。だとすれば、国語の授業で扱わない手はない。ですが、現状国語教育で手話を扱うケースは少ないのかもしれません。

 

国語教育で手話を扱うと

 jstageで次のような論文を見つけました。

 細谷美代子「国語教科書における「手話」の扱われ方」

 細谷は、これまでの国語教科書に「手話」についての記載がどの程度あったのかを調査した上で、次のように述べています。

手話が「福祉」の視点から語られる限り、言語教育の一環として手話を取りあげるという認識が定着しにくくなることが危惧される。(中略)福祉グループに入っていることが問題なのではなく、手話に関する記述がそこだけであることが問題なのである。福祉の視点からの学びは「総合的な学習の時間」をはじめ他教科でも可能である。国語教育においては「福祉」の枠組みに過度に束縛されることなく、言語としての手話という位置づけを基本としたい。

 やはり、「手話」もコトバですから、国語科で扱われるべきなのです。視覚言語を学ぶことによって、聴覚言語との違いを学ぶこともでき、自分が使っているコトバをメタ認知することも可能になるのではないでしょうか。

 コトバは日本語、外国語という二区分では語れません。様々なコトバがあります。

 「手話を言語として認めず、「言語らしいもの」と位置付け」ている現状のままであることは、悲しいことです。

 

とは言うものの…

 僕も手話で出来ることは、自己紹介程度です。HANDSIGNさんのような方が、こういう素敵な音楽を、映像を作ってくれることで、このように感化されるわけですね。関心を持ち続けたいです。